モニュメント・碑の紹介
Document and Exhibits
ゆだ苑という組織の主な取組みは「被爆者支援運動」と「平和運動」です。
この「2つの運動テーマ」を象徴的に示したものが、「原爆死没者之碑」と「非核三原則の貫徹と核兵器廃絶を誓う碑」の2つのモニュメントです。
2つの運動テーマと2つのモニュメント
両碑とも、建立の趣旨に賛同してくださった県内外の多くの方々の浄財により、山口市宮野江良地区の共同墓地の一画に隣接して建立しています。
なお、碑が建立されているこの土地は、原爆死没軍人が埋葬(1973年に収骨)されていた場所なのです。
アクセスマップ
原爆死没者之碑(死没者之碑と表示)
1974年9月6日に除幕されたこの碑は、1973年に収骨した無名の兵士に、安らかに眠っていただくことを心から祈念するとともに亡くなられた県内被爆者を弔うことを直接の目的とするものですが、同時に、この碑を通して、被爆の残酷さを永遠に後世に伝え核兵器完全禁止の意志の発揚を図っていこうとするものです。
写真の説明
- 墓地入口側案内板:共同墓地の入口(墓地駐車場横)にある案内板2つの碑(石碑と慰霊碑)は、山口市宮野下江良にある「共同墓地」の一角に建立
- バイパス側案内板:山口バイパスに向け、石碑横に建てられている案内版
- 共同墓地1:共同墓地内の写真
- 共同墓地2:共同墓地内の写真
- 両碑全景1:2つのモニュメントが同時に観える場所からの写真
- 両碑全景2:2つのモニュメントが同時に観える場所からの写真
- 「原爆死没者之碑」の写真(「誓いの碑」側から撮影)・手前の舗装部分が「誓いの碑」入口へのスロープ
- 原爆死没者之碑正面:写真手前から「献花台」(彫刻の後ろに納骨堂が完成するまでは、この献花台の下に死没者名簿と遺骨を収納するスペースが設けられていた)、「彫刻の慰霊碑」、「納骨堂」、向かって左奥に「慟哭」の碑文が書かれた円形碑盤を配置
- 彫刻は「原爆死没者之碑」という「碑名」を中央に、向かって右側に「花をささげる少女の像」、左側に「なげきの母の像」が配置され、さらに、このなげきの母の像の横には「死者の像」を配置
- 彫刻にはイタリア産大理石を使用し、高さ3.2m・横4m・奥行1m・総重量13t
なお、全体設計と彫刻は、当時、山口大学教育学部の伊藤 鈞 教授の作
- 除幕当時の慰霊碑
除幕当時の「死没者の碑」の写真(碑の後部に納骨堂は無く、雑木が茂っている) - 花をささげる少女の像:大理石を使った陽彫刻
- 碑 名:被爆兵士遺体埋葬についての情報の提供、また、発掘作業にもご尽力くださった藤井三男(当時、山口県教育委員会勤務)氏の筆
- なげきの母の像:大理石を使った陽彫刻
「花をささげる少女」と「なげきの母」の2つの像は、大理石が持つ独特の美しさと優しさで被爆体験を蘇らせて、次の世代に語り継ぎ、核兵器による惨禍を二度と起こさせないようにという人々の意志を表現 - 死者の像:大理石を使った陰彫刻
「死者の像」は、永久に消すことができず、風化すればするほど深く刻み込まれる影を表現 - 碑建立の経過:最近まで植栽で覆われていたためにメンテナンスができておらず、文字に施していた黒い塗料が落ちて見辛らくなっているが、慰霊碑の裏側に刻字
- 碑 盤:慰霊碑に向かって左後方に配置碑盤には「慟哭」(「どうこく」とは:悲しみのあまり、声をあげて泣くこと)に続き、「あの日の苦しみ いやさるることなく 無名兵士ら ここに眠る」昭和48年9月6日 被爆兵士遺骨発掘の場と刻字
- 納骨堂:手前の白い彫刻の慰霊碑が際立つよう黒御影石を使って1985年に除幕
- 正面には『永遠の平和を誓い いしぶみに 原爆犠牲のみ霊安めん』と書いた埋め込みプレ ート(いしぶみとは、事績を後世に伝えるため、文字などを刻んで建てる石・石碑・碑のこと)
- 納骨堂入口:納骨堂は、慰霊碑後方の一段高い場所を利用して、1985年に建立
- 納骨堂建立の経過:入口正面扉左側に掲げられているプレート
- 分骨:納骨堂内部の写真
- 分骨:納骨堂内部の写真
- 分骨:納骨堂内部の写真
19~21のスペースには、ご家族(や親類縁者)からのご希望でお預かりした、原爆死没者の遺骨(の分骨)を奉祀 - 無名死没者遺骨:19~21以外の原爆死没者の遺骨を奉祀
- 被爆朝鮮人遺骨:宇部市にある「共同墓地」に埋葬されていた2人の朝鮮人被爆者の遺骨で、1981年に発掘して納骨堂で奉祀
- 無名被爆兵士遺骨:1973年の被爆兵士の遺骨発掘作業では13体以上を収骨し、その遺骨は、当時の厚生省援護局の霊安室へ届けた(厚生省側は千鳥ケ淵に納骨)。
- ここに祀っている遺骨は、厚生省からゆだ苑側に返却された分骨
- 原爆死没者名簿:納骨堂へ収納している、原爆死没者を登載した名簿
- ゆだ苑では、1974年から原爆死没者の名簿作成と納骨堂への名簿登載を開始し、毎年、9月6日の追悼・平和式典の際に、過去1年間であらたに判明した原爆死没者を登載した名簿を収納
- なお、2011年9月現在、この納骨堂に納められている分骨は126体以上、名簿に登載されている原爆死没者は758名
非核三原則の貫徹と核兵器廃絶を誓う碑(誓いの碑と表示)
この碑は、2009年9月6日に除幕されました。
2008年に「ゆだ苑設立40周年」、翌2009年に「山口県原水爆禁止運動始動55周年」・「原爆死没者之碑建立35周年」と、山口県の「原水爆禁止運動・被爆者援護活動」にとって大きな節目の年でを迎えました。
この節目の年(石碑建立の取組みにあたっては、これらの年を、山口県原水爆禁止運動のメモリアルイヤーズと位置づけ)を記念して、運動に取り組む人たちだけではなく、同じ想いを持っておられる多くの県民のみなさんの、平和な社会を求める想いとその実現に向けての誓いを表現するものを創ろう、とのゆだ苑関係者の呼び掛けで、取組みは始まりました。
建立に当たっては、県民への呼び掛け・募金活動など、被爆者支援・平和活動に取り組んでいる県内10の団体や組織が発起団体が中心となって展開されました。
なお、この募金活動には、個人で5万人を超える県内外のみなさんが賛同・参加くださいました。
写真の説明
- 「誓いの碑」の写真(「死没者之碑」側から撮影)
・法面に見える2つの穴のようなものは、地中の水抜き用パイプ - 石碑全景:住宅地と墓地間の道路からの、登りスロープの終点が石碑建立地の入口
・その入口から撮影した写真 - 誓いの碑:2009年9月6日除幕の「誓いの碑」
・グランドゼロ、核兵器ゼロ、平和の「輪」等などを現わしており、山口県の彫刻家 田辺 武 氏 制作の石碑
・使用されている石は台座が能勢石、リングが山西黒御影石
・石碑の高さ3.1m/リング1.15m/重量は台座だけで11t - 碑文石:石碑を建立するに至った「石碑建立委員会」の想いを刻字
・サイズ1.4m×2.1m/重量6tの能勢石を使用 - 名簿収納石:石碑は、山口県民約5万人と多数の県外有志のみなさんからの浄財で建立
・お礼の意味も含め、それら全ての方々のお名前とご住所を記載した名簿を納めている石
・卵型の福建玉石を2分して両方の石の内部をくり抜き、名簿は防水容器の中に入れて石の中に収納 - オリーブの木と石のベンチ:敷地内には、「非核三原則」の「三」に因んで平和のシンボルである「オリーブの木・3本」と、暫し腰を下ろせる「石のベンチ・3客」を設置
原爆死没者之碑建立略史と山口のヒロシマデー
モニュメントの1つである「原爆死没者之碑」が建立されるまでには、1945年の山口の陸軍病院廃院、ゆだ苑の被爆関連資料収集活動開始、兵士被爆者カルテ発見、兵士被爆者遺体埋葬場所発見、埋葬遺体発掘、発掘場所に慰霊碑建立決定といった歴史があります。
以下、これらの歴史の要約(略史)とともに、遺骨収集の模様を、スライドでご紹介いたします。
また、この石碑の前では、除幕した翌年の1975年から、広島の平和式典にならい「第1回山口原爆死没者追悼・平和式典」を開催しています。なお、開催日の9月6日は遺骨収集作業を行った日・原爆死没者之碑の除幕日にあたり、この日を「山口のヒロシマデー」と通称しています。
1945年10月頃 | 陸軍病院廃止(山口市宮野江良)書類・カルテ等を山口陸軍病院小串分院(現在の国立療養所山口病院)に引継ぐ |
---|---|
1971年7月頃 | ゆだ苑が被爆関連資料の収集・兵士被爆者遺体の行方についての調査開始 |
1971年7月14日 | 国立療養所山口病院(下関市豊浦町小串)で兵士被爆者(119人)のカルテ発見 |
1971年7月22日 | 国立療養所柳井病院(柳井市伊保庄)で「原子爆弾傷研究綴」および「兵士被爆者カルテ」(1,080人)発見 |
1973年7月10日 | 山口大学ユネスコクラブが第3回平和キャラバン募金活動中、当時山口県教育委員会に勤めていた藤井三男氏が、兵士被爆者の遺体が山に埋葬されていると証言、山口市宮野江良地区の住民数人からも、証言を得る |
1973年7月31日 | 遺骨埋葬場所確認 |
1973年8月1日 | ゆだ苑は、地元の方と協議し、国・県・市へ遺骨収集のための発掘許可を申請 |
1973年8月4日 | 県・市・ゆだ苑での合同調査開始、調査地が埋葬現場であることを確認 |
1973年8月7日 | 現場の除草・瓦礫除去・整地を実施 |
1973年8月8日 | 仮の追悼碑を建て、追悼式挙行 |
1973年9月6日 | 遺骨収集作業開始・・・13体以上収骨 |
1973年9月10日 | 山口葬場で火葬後、ゆだ苑に仮安置 |
1973年9月13日 | ゆだ苑職員と山口大学ユネスコクラブ員の手で厚生省援護局に移送、厚生省慰安室に安置 |
1974年1月4日 | ゆだ苑理事会で、遺骨発掘場所に「慰霊碑」を建てることを決定 |
1974年5月12日 | 山口県原爆死没者之碑建設委員会発足、募金開始 |
1974年9月6日 | 除幕式、収骨した遺骨の分骨と、県内原爆死没者名簿および納骨希望の原爆死没者の分骨を収納 |
1975年9月6日 | 第1回「原爆死没者追悼・平和式典」を開催 |
以降、毎年9月6日に碑の前で、原爆死没者追悼・平和式典を「山口のヒロシマデー」の通称で開催している 。
この写真は「兵士被爆者の遺体を山に埋葬した」との証言を得た後、遺骨埋葬場所の確認から始まり発掘許可申請、現場の整地、追悼式、遺骨収集作業、山口県原爆死没者の碑建立に至るまでを写したものです。